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二条城



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二条城 (京都市中京区)



古都京都の文化財 世界文化遺産・日本 概要

京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっている。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。

歴史・沿革

さまざまな二条城
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。当時の二条大路は、朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで三代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。のちには、二条通に面していなくても、将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。室町時代に、平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、西院城があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。

1. 室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。
2. 室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって、作られた城。二条通にはなかった。
3. 織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。
4. 徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。

現存する二条城は、4. の城である。1. と 2. は、同じ場所に作られたが連続性がない。2. と 3. は、同じものと見る説(広辞苑、平凡社日本歴史地名大系など)もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。1. 2. 3. について「二条城」と呼ぶのは、4. が完成した江戸時代以降のことであり、4. と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近代の二条城である4. の前史として、1から3までの「二条城」について略説する。


室町時代・安土桃山時代

「二条城」前史として、徳川家康以前の二条城について記述する。

足利義輝の二条城
旧管領斯波武衛家のあった室町勘解由小路(現在の上京区武衛陣町、平安女学院の辺り)に、永禄2年(1559年)から翌年にかけて築かれた城郭で、義輝はここを幕府の本拠とした。しかし、防御能力強化工事中の永禄8年(1565年)、松永久秀と三好三人衆に襲撃され、自ら刀を執って奮戦するも義輝は殺害され、二条城は焼失した(永禄の変)。その後は、義輝の菩提を弔うため、真如堂が建立された。現在は、「此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」と彫られた石碑が建っている。なお、所在地は二条通からは遠く離れている。

足利義昭の二条城
足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、永禄12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは、京にいた信長家臣団、及び、義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長は、さらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は、義輝の二条城のあった地を中心に、それをさらに拡張して約400メートル四方の敷地に、二重の堀や三重の「天主」を備える城郭とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には、村井貞勝と島田秀満が任じられた。旧管領細川京兆家旧邸からは、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭は、ここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。

ところが、義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年(1572年)、義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し、三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌4年(1573年)3月に、義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え、正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槙島城において挙兵する。このとき、二条城には、公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近の伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、信長軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に、御殿などは兵士たちによって掠奪され、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し、畿内から追放され、室町幕府は滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は、天正4年(1576年)に解体され、築城中の安土城へ運ばれ、建築資材として再利用された。当時は「武家御所」「武家御城」などと呼ばれていた(この城が二条にあったとするのは「信長公記」永禄12年2月2日条が初出か)。

旧二条城跡昭和50年(1975年)から53年まで、京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館や西京区の洛西竹林公園内に保存されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木門内及び現二条城内に復元されている。 現在は、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑が建っている。


織田信長・誠仁親王の「二条新御所」

織田信長が烏丸−室町の御池上る付近に設けた城館。

信長は、天正4年4月に京に滞在した際、二条の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する二条家の屋敷の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿)は、当時、「洛中洛外図屏風」に必ず登場する名所中の名所として広く知られていた。前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徒して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛したときの宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて改修することを京都所司代の村井貞勝に命じた。翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどは、この「二条御新造」を京の宿所とする。天正7年(1580年)11月に、信長はこの邸を、儲君の誠仁親王に献上した。直ちに、誠仁親王と皇子の五の宮(後の邦慶親王)が、この「二条新御所」に転居した(なお、この際信長は五の宮を猶子としたとされており、これを正親町天皇の五の宮である誠仁親王にあてる誤解があるが、正しくは親王の五の宮が猶子となったのである)。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男織田信忠主従は、それを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに京都所司代村井貞勝とその子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は、誠仁親王らを禁裏御所に避難させた上で、ここに籠城し、これを攻囲する明智勢と奮戦するが、信忠を始め、村井貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した。現在は、両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。

現在、この二条御所は義昭の二条城跡に設けられたものとする説が広まっている。しかし、誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから禁裏南方にあったと思われる。また本能寺の変に際して信忠が妙覚寺から移動したことから両所は近接していたことが推測できるし、山科言経が天正4年9月13日に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出を目撃しているから(『言経卿記』)、明らかに別の場所にあったとすべきである。

羽柴(豊臣)秀吉の「二条第」

なお、羽柴秀吉も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年に信長によって没収されてお気に入りであった前関白近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後、天正11年本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天主もあったことから屋敷というより城という方が相応しかったのだろう。聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は、二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」を遺している。


古都京都の文化財 世界文化遺産・日本


創建

幕府は二条城と称したが、朝廷側は、これを二条亭と呼んだ。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、慶長6年(1601年)5月から町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。慶長7年(1602年)5月に、御殿・天守の造営に着工、翌8年3月に落成する。但し、天守は、慶長11年(1606年)に完成。家康は、慶長8年(1603年)2月に伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月に竣工間もない二条城に入城、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は、2年後の慶長10年(1605年)に第2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に第3代将軍家光が踏襲するが、第4代将軍家綱以降は行われなくなった。

慶長16年(1611年)に、二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において、徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われるが、このとき家康は秀頼の成長ぶりに驚き、徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも言われている。そして、慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発。二条城は、大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。翌慶長20年(1615年)の夏の陣においては、二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣が捕縛された。このため、古田織部は切腹、家財没収となる事件もあった。

元和2年(1616年)に家康が没した後、元和5年(1619年)から秀忠は、娘和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。このときの縄張(基本設計)は、秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は、2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。翌元和6年(1620年)6月18日、和子は、二条城から行列を作り御所へ入った。

行幸

家光が将軍になり、秀忠が大御所となった元和9年の翌年、寛永元年(1624年)から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため、大改築が始まった。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。行幸は、寛永3年(1626年)9月6日から5日間に渡っておこなわれ、その間、舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は、上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。秀忠死後の寛永11年(1634年)7月、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、二条城に入城したのを最後に、二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。

その230年の間に、暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守が炎上、焼失。さらに、京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で、本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、滅失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。

二条城には、寛永2年に、将軍不在の間の管理と警衛のために、二条城代と二条在番が設置された。元禄12年(1699年)に二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。文久2年(1862年)閏8月には、交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は、二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。


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幕末

庭園側から見た二の丸御殿14代将軍家茂は、文久3年(1863年)3月、朝廷の要請に応えて上洛をする。これに先立ち、文久2年(1862年)から、将軍上洛を迎えるため、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。家茂は、慶応元年(1865年)に再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかし、ここで病に倒れ、翌慶応2年夏に死去する。二条城では幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定するが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく、その年の12月に、二条城において第15代将軍拝命の宣旨を受ける。ただし、慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移したのは翌慶応3年9月のことであった。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。このとき二条城には、旗本を中心とする徳川家直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は、若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし、命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は、永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。

翌慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。大坂に召還された永井尚志に代わり、二条城は水戸藩士梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日に、朝廷(新政府)の命を受けた議定徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は、宮中に移転した。

近現代

東京奠都後の明治3年(1870年)に、二条城は留守官の管轄下に置かれるが、明治4年(1871年)二の丸御殿は京都府庁舎となる。明治6年に陸軍省の所管に移された後、明治17年(1881年)に宮内省の所管となり「二条離宮」と改称した。翌明治18年(1882年)に京都府の新庁舎が完成したため移転した後、二の丸御殿の修理が明治20年まで行われる。

明治26年から27年にかけて、京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。大正4年(1915年)、大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い、南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。第二次世界大戦後、GHQの意向で、二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年(1965年)に庭園に変えられた。



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