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ジェームス・ブラウン



ジェームス・ブラウン




ジェームス・ブラウン ギタリスト


ジェームス・ブラウン <ソウルミュージックシンガー>



【 コンポラ 「アート資料館」 では、旅をテーマに、旅するアーティストの作品、インタビューをご紹介しています。 】
今回は「ソウル界のゴッドファーザー」、ジェームス・ブラウンです。



ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサー・エンターテイナー。通称JB。

ファンクの帝王と呼ばれ、 The Hardest Working Man in Showbizinese(ショウビジネス界いちばんの働き者)と称される。シャウトを用いた歌唱法が特徴である。

彼の父はインディアン・アパッチ族で、母はアフリカン・アメリカンとアジア人の系統であり、彼は日系人及び日本人のクオーターである。


ジェームス・ブラウン 生涯

生い立ち
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、世界恐慌時のサウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも1928年、テネシー州プラスキ生まれという説がある。成人後に、ジェイムズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。成長するにつれ、彼は犯罪に手を染め、16歳の時に武装強盗の罪で有罪判決を下され、1948年からトコアの教護院に収容される。

教護院での服役中に、ブラウンはボビー・バードと知り合う。バードの家族は、ブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンは、オーガスタまたはリッチモンド郡に戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念することとなる。ブラウンは、音楽へその情熱を傾けることとなった。



ジェームス・ブラウン


フェイマス・フレイムズ
ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結ぶ。

バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とのようにクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。

ジェームス・ブラウン

これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していき、上述のPファンクはもちろん、プリンスなどに強い影響を与えた。

ジェームス・ブラウン
パパズ・ガット・ア・ブランド・ニュー・バッグ
ブラウンとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『Live at the Apollo (1962)』まで待たなければならなかった。

アルバムが成功すると、引き続いてアラン・トゥーサンとの作品を発表し、これらもヒットとなった。1964年の「Out of Sight」「 Night Train」は、生で飾らないサウンドを特徴とし、ホーンセクションとドラムスが中心となった。ブラウンのヴォーカルは、激しくリズミカルな感性を引き起こした。しかしながら、「Out of Sight」はスマッシュ・レコードからリリースされ、キング・レコードとの契約破棄による法廷闘争は、彼の録音作品の1年間リリース禁止に帰着した。


1970年代
1970年3月、当時「ジェームス・ブラウン・オーケストラ The James Brown Orchestra」と呼ばれていたバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。メイシオ・パーカー(テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。


1970年の末からは、フレッド・ウェスリーが音楽監督となった。フレッド・ウェスリーが75年に脱退するまでの4〜5年間は、「ファンク完成期」とでも言うべき時期であり、ブラウンの何度目かの黄金期である。

1974年には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者モハメド・アリと王者ジョージ・フォアマンが対戦し、「世紀の一戦」「キンシャサの奇跡」と謳われた。この試合をプロモートしたドン・キングが同時に開催したアフリカのウッドストックと宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画「モハメド・アリ かけがえのない日々」や映画「SOUL POWER」で観ることができる。

その後、1977年頃からに起こった「ディスコ・ブーム」とともに、ブラウンは皮肉にも、その起源のひとりであるにも関わらず、時代にそぐわないアーティストと見なされるようになった。1976年の『Get Up Offa That Thing』や77年の『Bodyheat』などのヒットもあるが、70年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代である。


ジェームス・ブラウン 1980年代
1986年1月23日にはロックの殿堂入りした他、映画「ロッキー4/炎の友情」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演するなど、人気注目度の回復にも関わらず、1980年代末までブラウンは法的トラブル、金銭トラブルに悩まされた。

1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、マシンガンを持って家を飛び出し公園のトイレの便器に向かって乱射し、駆けつけた警察とオーガスタの州間高速道路20号(Interstate-20)でカーチェイスを行った末、ジョージア州の隣のサウスカロライナ州境付近でガス欠となって逮捕され、6年の実刑判決を受けた。


1990年代
1991年2月27日、6年の判決に対して3年弱の服役で釈放された。この年には 4-CD セットの "Star Time" を発表、この頃よりブラウンは、その功績を称えられ、いくつかの名誉ある音楽関連の賞を受賞している。

1992年2月25日、ブラウンは第34回グラミー賞特別功労賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、1993年11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェイムズ・ブラウン大通り James Brown Boulevard」と改名し記念式典を行った。1998年には「ブルース・ブラザース」の後編である「ブルース・ブラザース2000」に出演した。


2000年代
2001年に行われたNBAオールスターゲーム・ジャムセッションにて2000年10月14日発売のSMAPが発表したアルバム『S map 〜SMAP 014』収録曲の「ジャラジャラJAPAN〜for the Japanese」でコラボ楽曲を発表、競演。

2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードに招かれる。ここではマイケル・ジャクソンが飛び入りで参加したが、この共演は約20年ぶりのことであった。その後、マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らのミュージシャンの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。ブラウンは、2003年にケネディセンター賞を受賞した。

2004年12月に、ブラウンは前立腺癌と診断され手術を受ける。

2005年5月6日、ブラウンの72度目の誕生日にオーガスタ市は7フィートのブロンズ像を贈呈した。像は本来その1年前に送られる予定であったが、その当時ブラウンが直面していた家庭内暴力事件のため、延期された。2005年7月6日にはLIVE 8のEdinburgh 50,000 - The Final Pushに出演、イギリスの歌手ウィル・ヤングと「Papa's Got A Brand New Bag」をデュエットした。また、その1週間前にはジョス・ストーンと「Friday Night with Jonathan Ross」に出演、デュエットを行っている。

2006年、ブラウンは世界ツアー「Seven Decades Of Funk World Tour」を行う。最新のショーは、聴衆から肯定的に受け入れられた。最後のショーは、オキシジェン・フェスティヴァルへの出演であった。2006年8月22日、オーガスタ・リッチモンド郡競技施設局は、市民ホールをジェイムズ・ブラウン・アリーナと改名することを票決した。2006年11月14日には、イギリス音楽の殿堂入りを果たした。ブラウンは、授賞式で演奏を行った幾人かの受賞者の内の一人であった。


ジェームス・ブラウン 死去
ブラウンは2006年12月24日、歯科医を訪れそこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院するが、翌日の午前1時45分、ツアー予定を残したまま死去。73歳であった。代理人によると、死因はうっ血性の心不全であった。その死去はCNNやBBCなど世界中のメディアでトップニュースとして報じられた。

この時、ブラウンの医者として働いていたのはコンラッド・マーレーであった。マーレーは現在、マイケル・ジャクソンの死因を巡り、過失致死傷罪として正式に裁判するかの予備尋問を行っている。

死の直前にブラウンは、アニー・レノックスの新作アルバム『Venus』で「Vengeance」をデュエットする予定であった。

12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、約8,500人のファンやマイケル・ジャクソン、M.C.ハマーなどの友人、関係者が集まり、ブラウンの音楽界に残した業績、人生を讃え最後のお別れをした。ブラウンが逝去する直前に病床で話した、ブラウンのマネジャーであるチャールズ・ボビットはそのスピーチで、ブラウンが最後まで仕事のことを気にしていたこと、マイケル・ジャクソンやプリンスとしなければならない仕事があるのだと、最後に話したことを明かした。


家族
ブラウンは、4度の結婚を経験した。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。ブラウンは、また最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。

逮捕歴
個人的生活において、何度かの有罪判決を受けている。16歳で窃盗の罪で逮捕され3年服役した。3番目の妻エイドリアン・ロドリゲスに対する暴力行為で1980年代中頃と1990年代中頃に合わせて4度逮捕されている。1988年には、ジョージア州とサウスカロライナ州境で、上述の通り警察とのカーチェイスを行い、懲役6年の判決を受け2年間服役した。また、無許可で拳銃を所持した上警官に暴行を加えたり、麻薬関係や交通違反などで幾度となく有罪判決を下された。2004年1月28日に、4番目の妻トミー・ライ・ヒニーへの暴行で逮捕された。

来日記録
ブラウンの公式来日記録は下記のとおり。 1973年 1974年 1975年 1979年 1986年 1987年 1992年 1993年 1994年 1995年 1997年 1998年 2002年 2003年 2006年 また、返還前の沖縄で1968年に公演を行なっている。

ジェームス・ブラウン エピソード
  • 世界のミュージシャンの中でも驚異的な記憶力で知られており、無名時代からの世話になったDJや関係者の名前などを覚えており、相手はどうせ忘れているだろうと思っていたら、ブラウンがフルネームで覚えており、「あの時はありがとう」と語ったという。
  • プリンスは、若年時ブラウンのファンで音楽的に多大な影響を受けたが、ブラウンのコンサートでステージに上がって踊り続け、警備員に引き降ろされている。 客席にいたマイケル・ジャクソン、プリンスが、ステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し、観客から喝采を浴びる。そしてプリンスも同会場にいる事を知ったブラウンはステージからプリンスを呼ぶ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、J.B.'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに上半身裸になり興奮状態のままフラフラとしながら寄りかかった照明器具を倒しつつ、客席に戻る。
  • 幼い頃のマイケル・ジャクソンは、ステージの端から彼の驚異的なステップの数々を見て学んだという。今日の彼があるのも、ブラウンによるところが大きいと言える。オーディエンスの沸かせ方もまたそうである。
  • 1991年に、眉毛を入れ墨にしている。
  • 1992年に死亡したとの誤報があった。これはハードコアテクノのアーティストL.A. Styleがリリースした「James Brown Is Dead」のヒットが要因だったと思われる。作曲者のDenzil Slemmingがロサンゼルス滞在中に、バーで出会った酔っ払いがしきりに口にしていたフレーズを基に曲を作ったというものである。
  • 日本では、1992年に日清食品のカップヌードルMISOのCMキャラクターに起用され話題となった。「Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine」の中のフレーズ「Get Up!」が日本人の耳には「ゲロッパ(ゲロンパ)!」と聴こえるという事もあって、それを「ミソンパ!」というフレーズに置き換えJB本人が歌うというセルフパロディ的な内容であった。それまで彼を知らなかった日本の子供たちに対しても「ミソンパおじさん」としてその存在を広く認知させる出来事となった。1993年1月21日には「Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine」の再録音盤「SEX MACHINE'93」も日本でシングルとして発売、約1か月で1万枚超と、当時の日本における洋楽シングルとしてはヒットとなった。なおこのシングルでは「ミソンパ!」と歌ってはいない。このMISOは、しばらくカップヌードルのメニューからは外されていたが、近年味をリニューアルし自動販売機などで細々と販売されていた。再びコンビニなどの商店で販売されるようになったのは、奇しくもブラウンが亡くなる前月であった。



  • ジェームス・ブラウン


  • 細野晴臣の音楽ユニットフレンズ・オブ・アースの『SEX ENERGY & STAR』には、ブラウン自身の歌唱とメイシオ・パーカーのベースをフィーチャーした「SEX MACHINE」のエレクトロファンク・カバーが収録されている。レコーディングは、86年の来日公演後に行われた。
  • 2000年には、サマーソニックに出演のために来日。初日の東京公演ではただでさえ押していた進行の中、時間から遅れて登場し、さらに持ち時間をオーバーして歌い続けるという「オレ様」っぷりを発揮した。しかし、次に控えていた大トリのジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンのファンであると思われる観客によってステージにペットボトルを投げつけられると激怒して袖に引っ込んでしまった。その後、おそらくスタッフの懸命な説得によりステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続け、運営に照明を落とされるという憂き目を見ている。なお、この独演により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
  • 谷村新司の事務所の社長が社運をかけてブラウンを日本に呼び、大阪のフェスティバルホールでライブを開催したが、宣伝活動をまったく行わなかったために、客が2,500人のホールに200人ほどしかおらず、通常ならアンコールが行われる所にも関わらず、ブラウンがステージの袖で腕をバッテンにして首を振って「ダメ!、ダメ!」というジェスチャーを行い、アンコールを拒んだ。
  • サウスカロライナ州ビーチアイランドの川岸の自宅で生活していた。
  • 母方の祖父は日系人であると、日本のテレビ番組に出演した際に発言したことがある。「祖父の葬儀に出席したときに初めて知ってびっくりした」という。そのとき彼は、「お陰で母は手先が器用だよ」と微笑み、日本人のよい特性を賞賛する発言もしていた。彼の父はインディアン・アパッチ族で、母はアフリカン・アメリカンとアジア人の系統であるため、事実である可能性が高い。









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