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エラ・フィッツジェラルド



エラ・フィッツジェラルド




エラ・フィッツジェラルド・ジャズ・シンガー


エラ・フィッツジェラルド <ジャズ・シンガー>



【 コンポラ 「アート日和」 では、旅をテーマに、旅するアーティストの作品、インタビューをご紹介しています。 】
6回目は史上最高の女性ジャズ・シンガーともいわれているエラ・フィッツジェラルドを取り上げます。


エラ・フィッツジェラルド (Ella Jane Fitzgerald) 音楽 ジャズ・シンガー
エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald 1917年4月25日 - 1996年6月15日)はアメリカ合衆国のジャズ・シンガー。サラ・ヴォーン、ビリー・ホリデイと並び称される女性ジャズ・ボーカリストの一人。

13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュ大統領からは大統領自由勲章を授与されるなどレコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。Lady Ellaまたはthe First Lady of Jazzとよばれる。



エラ・フィッツジェラルド (Ella Jane Fitzgerald) 音楽 ジャズ・シンガー 生涯
エラ・フィッツジェラルドは1917年4月にヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれ、ニューヨーク州ヨンカースで成長した。両親は彼女の誕生後間もなく離婚している。離婚後父は姿を消し、さらに14歳の時には母が交通事故で死亡し彼女は孤児となった。

1934年11月21日に16歳のエラは初めて聴衆の前にデビューした。ニューヨークのハーレムに存在したアポロ・シアターにおけるアマチュア・ナイツでダンスを披露する予定だったエラは、自分の前に出演した地元のダンス・デュオの演技に圧倒され、予定を変更し自分のアイドルであるコニー・ボズウェルのスタイルを真似て歌を披露した。その夜のコンテストに勝利した彼女はチック・ウェブズ・バンドのBardu Aliに見いだされ、バンドへの誘いを受けた。翌1935年からエラはハーレムのサヴォイ・ボールルームでチック・ウェブズ・バンドをバックに歌手活動を開始した。このバンドと共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作成している。
当時病気で療養中であったチック・ウェブの為にヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』が17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげた。1939年にウェブが死亡すると、バンドは名称を"Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra"へと変更しツアーなどの活動を継続した。

1941年からはソロでの活動を開始した。この時期はデッカ・レコードのMilt Gablerがマネージャーを務めている。1955年にデッカを離れた後は、ノーマン・グランツが興したレコード会社ヴァーヴ・レコードに所属した。



エラ・フィッツジェラルド (Ella Jane Fitzgerald) 音楽 ジャズ・シンガー 1956年から1964年にかけてつくられた8つのレコードは興行と批評の両面において大きな成功を納め、エラの代表作となった。下にこれらのレコードを挙げる。括弧内は編曲者を記した。

Ella Fitzgerald Sings the Cole Porter Songbook (1956年、バディー・ブレグマン)
Ella Fitzgerald Sings the Rodgers & Hart Songbook (1956年、ブレグマン)
Ella Fitzgerald Sings the Duke Ellington Songbook (1957年、デューク・エリントン & ビリー・ストレイホーン)
Ella Fitzgerald Sings the Irving Berlin Songbook (1958年、ポール・ウェストン)
Ella Fitzgerald Sings the George and Ira Gershwin Songbook (1959年、ネルソン・リドル)
Ella Fitzgerald Sings the Harold Arlen Songbook (1961年、ビリー・メイ)
Ella Fitzgerald Sings the Jerome Kern Songbook (1963年、リドル)
Ella Fitzgerald Sings the Johnny Mercer Songbook (1964年、リドル)

エラはコール・ポーターとガーシュインの作品を取り上げたアルバム、それぞれ『Ella Loves Cole』と『Nice Work If You Can Get It 』を作成した。パブロ・レコード時代にはアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を歌った『Ella Abraca Jobim』をリリースした。これらのレコーディングの合間を縫ってアメリカ国内と外国へのツアーを行っている。

ヴァーヴ時代には幾つかのライブアルバムをリリースした。『Ella at the Opera House』、1950年代の『Ella in Rome』、『Ella in Berlin』、1964年の『Ella at Juan-Les-Pins』、1966年の『Ella and Duke at the Cote D'Azur』などはいずれもも高い評価を受けている。



エラ・フィッツジェラルド (Ella Jane Fitzgerald) 音楽 ジャズ・シンガー 私生活
何人かのエラの知人は彼女の人生の皮肉さについて言及している。彼女の歌ではしばしば”完璧なロマンス”が取り上げられたが、実際のエラの生活は1930年代から数十年に渡り、ツアーとレコーディングに明け暮れるロマンスとはほど遠いものであった。

エラは2度の結婚を経験している。一度目は1941年にベニー・コーネゲイと結婚したが、彼は麻薬の密売と詐欺で有罪を宣告され、結婚も早々に解消された。1947年には著名なダブル・ベース奏者であったレイ・ブラウンと再婚した。二人はエラの義理の姉妹の子を養子にとり、レイ・ブラウン・Jrと名付け養育した。 1952年に二人は離婚した。1957年7月にはロイターにより、エラがオスロ生まれのノルウェー人Thor Einar Larsenと結婚する予定であると報じられたが、彼が以前に結婚詐欺を犯していたことがわかり婚約も解消された。

晩年のエラは糖尿病により盲目となり、1993年には手術で両足を切断した。1996年79歳のエラはカリフォルニア州ビバリーヒルズで死亡した。亡骸はイングルウッドの墓地に埋葬された。

後の研究の為にエラに関する個人文書および財産の一部がスミソニアン学術協会およびボストン大学図書館、アメリカ議会図書館に保管されている。










Ella Fitzgerald - A-Tisket, A-Tasket





Sammy Davis Jun. - Ella Fitzgerald





1974 - Ella Fitzgerald - It Don't Mean a thing





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